こんばんは。
弁護士の宮本です。
さて,今日は刑事事件のお話です。
先日,一審の裁判員裁判で死刑が出た事件で,高裁で無期懲役,その後最高裁でも原審維持という事件がありました。
判決文はここから確認することができます。
裁判員が死刑と認めた事件に関して,高裁で無期懲役になり,最高裁でもそれを維持する事件というのは,複数件あると思います。
そうなると,やはり市民感情を反映した裁判員裁判とはなんぞや,という意見が出るのもそのとおりですよね。
法曹からすると,行為したことを責められるのは,行為当時,事実を認識し,止めることもできたのにあえて行ったことに対する非難であると考えています。
だから,行為当時,事実をきちんと認識できていたか,自分の行動をきちんと制御できる状況だったか,ということは非常に重要だと考えています。
なぜなら,自分の行動を認識できていなかったり,自分の行動を制御できなかったとすれば,その行為を行ったことを責められないからです。
上記の最高裁判例では,覚せい剤の作用によってなかなか自分の行動を制御できなかったとする考えているようです。
無論,自分が制御不能になることを利用しようと思って覚せい剤を使用した場合には別の考え方があります。これを「原因において自由な行為」とか言ったりします。わからない方は知り合いの法学部生に聞くと,喜んで教えてくれますよ。
本件では最高裁は「死刑が究極の刑罰であり,その適用は慎重に行わなければならないという観点及び公平性の確保の観点」という点から無期懲役を選択しています(というか原審を支持しています。)。
前者はそのとおりなのですが,後者はつまり,これまでの判例法理に照らして,情状の余地がある以上,死刑は厳しすぎるということです。
裁判員の判断をひっくり返したところだけがピックアップされると,なんだか法曹としてはモヤモヤしたりするのです。
折しも,6人殺傷の熊谷の事件でも,死刑とした地裁判決を高裁が無期懲役にしたみたいで。
裁判官も悩んだりする,ということも少しは思い出してあげてください。
それでは。
宮本